「いつものプレーができなかった」
そんな言葉をよく耳にする。
敗者のコメントに多く聞く言葉だが、
聞き様によっては「いつものプレーができていれば勝てた」そう聞こえなくもない。
ただ、個人的に思うのだが、重要なのは「いつものプレーができなかった」ことではなく
「いつものプレーがなぜ、できなかったのか」。
事の問題がそこにあるのではないだろうか。
あるラグビー部の監督は、こう言った。
「調子に波があるかないかは、その人の性格だと思う」と。
この言葉だけで意味が分かるだろうか。
人間性が良くないとか、そういう話を監督は伝えたいのではない。
続けて、こう言っていた。
「調子に波が出るのは日ごろの生活で、やったり、やらなかったりの波があるから。
スリッパをそろえたり、そろえなかったり。授業に出たり、出なかったり。
10本のダッシュをすべて一生懸命やるのか、どこかで手を抜いてしまうのか。
人間に波があるから、調子に波が出てくるのだと思います」
いつものプレーができなかったのではない。
いつものプレーができない人間力に、日頃からなってしまっているのだ。
以前も人間力についてお話したが、おさらいすると
「教室、部活、家と選手には3つの顔があるけど、根本は一つ。
三重人格の人間だったら、ココというときに力は発揮できない。」
時と場合によって行動を変える、態度を変えるということは、
そこに芯がないということを意味するのではないか。
ラグビー部の時は靴を揃えるのに、家では揃えない。でも、クラスでは揃える。
3つの顔を日ごろから作っていれば、それがラグビーの中でも出てきてしまうものなのだ。
たとえば、学校のグラウンドで試合をしていたのが、総天然芝のラグビー場で試合をする。
普通のチームと試合をしていたのが、花園常連校と試合をする。
決勝戦、テレビ中継、スター選手との対戦…
舞台や対戦相手が変わった時に、日ごろからの生活が影響してくる。
3重人格を作っていると試合でも、いつもとは違う自分が覗いてしまうというわけだ。
「いつものプレーができなかった」とは、実はそういうことなのではないだろうか。